我が永遠の聖地=佐渡島へ向かう
★第二部(第二十話)

きっと中型や大型バイクに乗る者にとっては原付なんて邪魔者でしかないだろうが、気分はいっちょ前にライダー気取りで、どこへ行くにも原付で充分だと感じていた。

大型免許も気軽に取得できる昨今、果たして大型バイクのモアパワー&モアスピードを使いこなす機会というのはどれくらいあるものなのだろうか?未だに疑問にさえ感じることがある。

ましてや、あまりにも身のこなしが不十分に思われる輩がどれほど多いことだろうか?

誰が乗っても圧倒的な加速で最高速まであっという間に達し、速いだの凄いだのと感動するのならば最新のバイクに乗れば良い。だがそこには全開でぶん回す楽しみが減ってしまうのは間違いない事実だ。

常にCD50に乗っていたときは、そう言い聞かせていた。どこへ行くにも電車には乗らず、CD50だったのだ。

大雨になろうが大雪になろうが、乗るといったら乗る。

CD50を購入し、何度か乗るうちに変速も大分慣れてきた。スクーターに慣れてた者にとって最大の憧れはいかにカッコよくエンブレを掛けれるかだろう。

走り出せば何度も何度も無駄にエンブレを多用し、どこまでエンブレだけで走れるか毎回挑戦していた。

スタイルもまんまオヤジバイクで「なんでCD50なんて買ったのだ?」と言われたが、どうもこういう激シブなバイクが好きらしいから始末に終えない。黒いタンクに赤&金ラインが入ったまるで横浜中華街的なカラーが最高だった。

最近ではCD50のタンクを流用したエイプという原付が発売されているが、あれもきっとCD50カラーを採用したらもっとカッコよくなるに違いないと思うのだ。

変速もかかとと、つま先両方使えるので、高級な革靴でも乗れるあたりがなんともお洒落に思うのだ。

だが結局は、原付しか免許ないにも関わらずスピードに物足りなさを感じ出し、ある時、唐突に75ccボアアップキットを買ってしまったのだ。ノーマルのヘッドでOKという表記に惹かれて気付けば作業に取り掛かった。

何の知識も無かったが、取り替える部品を外して、また元通りに組み付ければ良いのだろうと安直な考えで、早速ばらし作業に取り掛かった。

ばらし出してから気付く事は多い。開ける前にもっとエンジン周りを掃除しておけば良かったと・・・そしてパーツを整理して並べておけばよかったと・・・

カムチェーンやらカムやらをよくわからないままに取り外し、同じように組み付け直し数時間の格闘作業の後に75cc化は終ったのだ。ついでにキャブもミクニVM20を調達しておいたので、これまた訳もわからずキャブセッティングを始めた。

その当時キャブ=メインジェットという安易な発想しか無かった為にメインジェット変更だけでセッティングを出し、あとはエアスクリューとアイドリングの調整だけで半ば無理やりエンジンを始動させた。だがさすがに世界のホンダ、オイルを注入し数回キックをすると明らかにパワーは増大した感じがわかるほど力強いアイドリングをしていたのだ。このエンジンをばらし組み直した後に始動する儀式は何度体験しても緊張する。

そして上手く掛かったときの喜びはすぐに安心に変わるのだ。何も知らない自分が一つの作業をこなせた時に身に付ける自信は計り知れない。だが同時にそれが過ちを生み出すという事もこの時にはまだ気付いてなかった。

この作業の頃、季節はもう真夏、炎天下の日差しが最大のパワーを発揮する時期であった。

エンジンをボアアップした翌日、何も考えずに旅に出た。出発地は東京で目的地は新潟県の佐渡島、距離は下道なので500Km近くあっただろうか?セッティングも良くわからなかったが、走りながら変えれば良いだろうとしか考えてなかった。しばらく佐渡島に向かった時の話をしてみたい。

何故、佐渡島に行きたかったか?というと高校時代に合宿で佐渡島を約半周近く歩いたからなのだ。歩きの次に向かうならば原付という安直な発想は誰でも思いつくものではない。我が永遠の聖地へ向けて、今まさに旅立つのだ!

道中は先輩のDT50とランデブー走行で、深夜に東京を発ち、高崎を越えて利根川の土手でテントも張らずに寝袋だけで寝た。

翌朝はかなり長距離の走行になり、高崎から17号線で最大の山場、三国峠を越え新潟を目指すルートだ。

つまらない市街地を抜け、山間に突入すると上りはさらに厳しくなる。と同時にぐんぐんパワー感が無くなり、時速30Km/h程しか出せなくなってきた。これはおかしい、きっとセッティングが変わってきたのだろうと感じながら、むやみにメインジェットをリセッティングした。

標高が高くなるとセッティングは濃い目になるのはなんとなく聞いていたので、きっと濃くすれば早くなるだろうと濃くしただけの話。キャブレターのVM20の特徴はメインジェットが無段階調整式で、走りながら無理やりメインジェットを制御出来るのが最大の特徴なのだ!

峠をえっちらおっちら登る間にシートから半身を乗り出してメインジェットをクリクリと調整し、吹け具合を確かめていく、残念ながら40Km/hくらいしか出ないままに、さらに登っていくと度肝を抜く光景に出くわした。

学生時代サイクリング部に所属していたから、どんなに過酷なところでも自転車(マウンテンバイクやロードレーサー)で走ってきたから、峠を自転車が走っているのは不思議ではない事なのだが、なんとそこで見たのは前カゴに寝袋を積んだママチャリ2人組だった。歩く方が速いだろうと思われるほどの速度でゆっくり登っていたのである。

これにはさすがに言葉を失いかけたが、同時に感動と勇気を貰ったことは言うまでも無い。抜き際に「がんばれよーー」と半身を乗り出しながらガッツポーズでかなりド派手に応援しつつ、つづら折れを何度も越えて峠を越えた。馴染みのある苗場スキー場を左に眺めながら、思えばこんな所まで来たのか・・・と感慨もそこそこに湯沢の街に飛び込む。夏の湯沢は閑散として少しもの悲しい雰囲気だったが、そんなことは大して気にもせず一路、新潟を目指し続けた。なんとしても今夜中には佐渡島に上陸するのだ!

だが早朝5時に高崎近くを出て以来気付けば昼過ぎの炎天下、湯沢から長岡まで続く道のりはあまりにも単調な上に疲労感もピークを迎えていた。前を行くDT50をふと眺めると、な、なんと赤信号を無視して行ってしまったのだ。一体何があったのかと思う間もなくDT50は蛇行運転を始めていた。「あ、寝てるな?」DTを操る先輩を横に並んで起こし、先頭を交代し、さらにひた走る。

バイパスを走る道中で一キロおきに長岡まで何キロと表示されるのだが、もうまるでそれは「まだまだ長岡はこんなに遠いんだぞ!どーだ、まいったか!!」と言われてる気がしてかなり癪に障る。そんな標識のカウントダウンにヤキモキしながら、気付けば自分も居眠り運転をしていた。ふらふらーーっと走ってふと我に帰るが、またふと眠る、気付けばやはり信号は無視していた。

二人して蛇行運転を繰り返し、何度か信号無視を繰り返した後の、けだるい午後三時頃、ようやく長岡に着いた。どうにもこうにも睡魔が収まらず、駅前の駐輪場を見つけると、その屋根の下でいきなり昼寝をする。とにかく日差しを避けて寝られる場所は、今まで炎天下を走り続けて来た我々にとって天国だった。

忙しくセミが鳴く中、ふと目を覚ますと夕暮れだった。長岡から新潟まではさらに70Km近くあるが、ここからはさらに整備されたバイパスになるので、何も気にせず約70Km/hの全開走行を続けた。途中、覆面パトカーに出くわしたらかなりマズイ事態だったろうが、それすら考えずひたすら新潟を目指す。

もう暗闇が支配しだす時間、あっという間に日は暮れた。景色が変わっても、日が暮れても、ひたすら原付でバイパスを走りぬける、これもまた退屈だった。暗い中を突き進むと、新潟市と書かれた標識がこちらに向かってくる。先輩と二人でガッツポーズを高く突き上げながら、さらにペースは速まった。

夜八時過ぎに新潟港に到着し、あとはフェリーに乗れば佐渡島に上陸。二人で祝杯を上げながら、深夜のフェリーの出発をロビーで待ち続けた。

約二時間の航海の後、真っ暗な佐渡島、両津港に上陸だ。他のライダーも船内のバイク置き場で元気良くエンジンを吹かしだすと、それに負けず我々もめいいっぱいスロットルを開けながら、喜びの声を挙げ、一気に佐渡島の地を踏んだのである。

泊まるところは佐渡島、加茂湖畔にある野営地だ。ここは高校時代にも野営した思い出の地。真っ暗な中でテントを張り、長きに渡る戦いを制した安堵感が心地よい眠りを誘ったのだった。

我が永遠の聖地=佐渡島へ向かう
★第二部・完