最高の絶頂期
第三部(第二十一話)

佐渡島を周り、様々な地で思いを馳せ巡らせながら、刻一刻と佐渡島を離れる時間が近づいてきた。

出航と共に離れ行く緑の佐渡島を眺める度に毎回胸に染み込む思いが残る。数年おきに佐渡島を訪れる度により近代的に変わり行く姿を眺めると何故か悲しい。それでも去り往くときに見る緑色の島の姿は変わらない。 かもめがフェリーをどこまでも追いかけて来る眺めを楽しみながら、次回訪れるときはどのような光景になっているのか心配になってしまう。

ほとんど離島に足を運ぶ事は無いのだが、佐渡島には4度足を運んできた。何度行っても哀愁の漂う島、佐渡島には過去の暗い歴史がそこここに今も尚、眠っているのかもしれない。

わずかな時間で新潟港に到着すると、そこはもう近代化された空間だ。気持ちも新たにフェリーを飛び出すと、私の親戚が住む猪苗代が次の目的地だ。今回の原付の旅のルートは東京→新潟→佐渡島→新潟→猪苗代→鬼怒川→日光→東京で、総延長千`近い旅である。

新潟から猪苗代を目指すルートに選択肢は無い。国道49号線を東にひた走る。喜多方ラーメンを食べようと思いつつも、喜多方は素通りし、ただひたすら猪苗代を目指す。気付けば朝、佐渡島を出て以来、走りっぱなしで午後はバテ気味だったが、いくつかの場所で休憩しながら夕暮れ近づく頃に親戚の家に到着。二泊程世話になって、次のルートが確定した。

残り時間はあと一日だったが最大限に走りたい思いから、猪苗代→会津若松→鬼怒川→日光→小山→東京という、約400キロにも及ぶ壮大なルートだった。耐久テストとしても丁度良い機会である。

しかも、原付で東京を目指す我々にとって、猪苗代から日光までは国道121号線以外エスケープルートは無い。 丁度正午に猪苗代を出発し、鬼怒川を目指し121号線を爆走している途中で先輩のDTに異変がおき停止したのだった。山中の路肩でいろいろと状況を探っていると、後輪のドラムブレーキに異常があり、効きっぱなしの状態に陥ってしまったのだ。引っ叩いたり、蹴りを入れてようやくブレーキをリリースさせ、その後に取った手段はリアブレーキを無効にすることだった。なんとか前ブレーキだけで東京を目指すことにしたのだ。

その後快適に距離を進め鬼怒川に差し掛かる頃には野生の猿にも出くわした。本当に長大なルートで山深くを延々と走る道には感動すら覚えさせられた。日光に向けて走っていると天気も荒れ出し、気付けば雨が降り出していた。すでに時刻は19時を過ぎ、真っ暗で雨が振る中を、日光も素通りで走りぬけた。

さらに南下を続け4号線に合流すると飯もそこそこにさらにひた走る。結局東京に着いたのは深夜の2時だった。

ほぼノンストップの猪苗代→東京原付タイムトライアルは約14時間という結果だった。リアブレーキ故障や雨という事態を考慮しても、原付下道での事を考えればまずまずの成果ではなかっただろうか。と同時に無事CD50の75cc化が成功を確信したのだった。なんて長大な旅だったろうか、しかし、旅というものはいつも不思議だ。旅している最中はわからないのだが、都会に近づく程に寂しくなる。ついに騒がしい都会に戻る時が来たのか!と・・・

歩きながら旅を続け、それが自転車に替わり、さらに距離を求めるべく二輪車になっただけ、そうただ旅をしたいという願望を満たす為の道具の行き着いた先がバイクだったのかもしれない。

いつも矛盾を感じる。何故そんなに忙しく、慌しい都会を離れて尚、現代に生きる人は時間にしばられてしまうのか?そんな矛盾を解消するほどに原付の旅は丁度良い旅であったと思う。

最終日こそ限界の走りを続けたが、トラブルを乗り越えて達成した時の喜びは計り知れない。そして自然に身を任せたとき、自然は我々を厳しく受け入れてくれるのだ。

そう、きっと快適な近代的な生活を知れば知るほど、不便な環境が新鮮に思えるのだろう。

既に現時点(02年3月)から数えて約6年近く前の話だが、この原付の旅は未だに我がバイクライフの原点かもしれないと思っている。いい加減に組んだばかりのエンジンで慣らしもろくにせず走り続けた世界に誇るホンダ=カブエンジンは素晴らしい。

その後一年近く75cc仕様に跨り、MAX75Km/h程出せるようになっていた。加速は遅いが、これはこれで楽しいものだ。信号ダッシュでスクーターに離されながらも徐々に追いつき、60Km/hの原付のリミッターが掛かる速度を越えた瞬間、ゆっくりとスクーターを抜き去り、心の中で「どうだ参ったか!!」と叫ぶ気持ちよさ。

これほどまでに楽しい事は無かった。

だがそんな絶頂期は長くは続かなかったのだ。

最高の絶頂期・第三部完

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